電波報國隊/平野忠男

小生は海軍委託学生でしたので皆さんと異なり別行動となりました。恵比寿の海軍技術研究所に配属になり吉野淳一、三上一郎両君が一緒でした。我々の勤務は監督は業務課長、矢島技術大佐でしたが非常に厳しい方で、一般工員に対し恥ずかしくない行動をするよう言われた記憶が有ります。なお宿舎は当初工員寮でしたが、問題も有り途中から自宅通勤が認められました。所長は徳川技術中将で颯爽たる姿で挨拶をされたのを聞いた記憶があります。また毎朝朝礼の後伊藤庸二技術大佐が「論語」の一節を朗読、説明され、なかなかの名講義でしたが、これは職員、一般工員に対する道徳教育の意味が有ったと思います。戦後伊藤氏は「光電製作所」を設立され、電波応用機器部門で色々活躍されたようです。

さて小生の勤務内容は「電波探知機の基礎実験」と言うことですが、実際は上司の方の実験のお手伝いでした。電波探知機は昭和16年に伊藤大佐がドイツ留学から帰られて、その必要性、精度向上が重要であるとのことで研究が始まったようですが、当時日本ではアメリカより性能が大きく劣っていることに気が付かなかったようです。

さて私も電波探知機「以下レーダーと略記」の原理、機構とか、性能向上のため超短波を出すための発振管「マグネトロン」とかを俄勉強しました。上司には大阪大学の林竜雄先生、東大の岡村総吾、斉藤成文、杉下和也等の先生がおりましたが、私は直接には杉下氏の下にいて色々お手伝いしました。またレーダーの性能試験のため月鳥まで海軍のトラックで出かけたこともありますが、これは斉藤先生が指揮を取っておりました。ブラウン管上に船から反射らしい、かすかな、ぼんやりしたパルスを見た記憶が有ります。いずれにしても私の場合実験の手伝いが多く、自分で独自の実験をした記憶があまり無く「忘れたのかも知れないが」、実際の仕事に役にたったかどうか自信がありません。然し電波兵器の基礎を若干でも勉強出来たこと、海軍部内の雰囲気を少し体験出来たことは矢張り有意義だったと思います。

以上断片的な記憶をたどって記してきたが、具体的にどのような実験をしたのか、或いは生活環境等どうもよく思い出せない。何か大事な事を忘れているかもしれません。戦後海軍技研は技術研防衛庁研究所になり、昭和40年頃知人に会うため同所を訪ねたことがあるが、建物は当時のままだったようですがなにか明るい感じを抱いた。建物の色でも変わったためか?。卒業以来吉野君と連絡が取れないのは気がかりである。

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